2005年 03月 02日
今週の説教:その男の名は |
早稲田教会牧師 上林順一郎
だれでも思い出したくないような恥ずかしい失敗を一度や二度は経験したことがあるでしょう。私も結婚式で、新婦の名前を間違ってなんとお母さんの名前を二度も呼んでしまったことがあります。よく知っていたお母さんだったので、ついその人の名前が出てしまったのでしょうが、大切な結婚式で、よりにもよって新婦の名前を二度も間違えるなんて、牧師としてあるまじき失態です。式後、平謝りに謝ったものですが、その後しばらくは緊張のあまり名前をトチルなど「結婚式トラウマ」になったことがありました。
「一人の若者が、素裸に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」
(マルコ福音書14-51)
マルコ福音書だけが語るこの若者は、いったい誰だったのでしょうか? 古来、多くの推測がなされていますが、決定的なものはありません。私個人は、著者マルコと理解したいのですが、その人が誰であれ、とても恥ずかしい失敗をした人であったことだけは間違いのないことです。もし、この人がその後も教会のメンバーだったと考えると、この聖書が読まれるたびに、身を切られるようなつらい思いをしたことでしょう。
さて、もし彼が当時の教会のメンバーの中にいたとして(マルコがわざわざ書き残しているくらいですから、教会の中で知られていた人でしょう)、このような失敗にもかかわらず、なにが彼をして教会にとどまらせたのでしょうか?
行く先はどこなのか 分からない道をも
行かなければ 行かなければ
主が先にたち 行かれるから
「ともに歌おう」の10番 “主に愛されて”の歌詞です。
イエスを見捨てて、裸で逃げ去ったこの若者は、どこへ行ったのでしょうか? その後の消息をマルコは語りませんが、彼は逃げ出したその先で十字架のイエスに出会ったのではないでしょうか。裸のままで十字架につけられ、辱められ、殺されたイエスが彼の前に立たれたとき、彼はなお主に愛されていることを知ったのでしょう。
主に愛されていることからの出発が、その男の名は知られずとも「白い衣を着た若者」(マルコ16-5)として復活の場に登場するのです。 「あの方は復活なさってここにはおられない。先にガリラヤへ行かれる」と告げる復活の証人として。
だれでも思い出したくないような恥ずかしい失敗を一度や二度は経験したことがあるでしょう。私も結婚式で、新婦の名前を間違ってなんとお母さんの名前を二度も呼んでしまったことがあります。よく知っていたお母さんだったので、ついその人の名前が出てしまったのでしょうが、大切な結婚式で、よりにもよって新婦の名前を二度も間違えるなんて、牧師としてあるまじき失態です。式後、平謝りに謝ったものですが、その後しばらくは緊張のあまり名前をトチルなど「結婚式トラウマ」になったことがありました。
「一人の若者が、素裸に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」
(マルコ福音書14-51)
マルコ福音書だけが語るこの若者は、いったい誰だったのでしょうか? 古来、多くの推測がなされていますが、決定的なものはありません。私個人は、著者マルコと理解したいのですが、その人が誰であれ、とても恥ずかしい失敗をした人であったことだけは間違いのないことです。もし、この人がその後も教会のメンバーだったと考えると、この聖書が読まれるたびに、身を切られるようなつらい思いをしたことでしょう。
さて、もし彼が当時の教会のメンバーの中にいたとして(マルコがわざわざ書き残しているくらいですから、教会の中で知られていた人でしょう)、このような失敗にもかかわらず、なにが彼をして教会にとどまらせたのでしょうか?
行く先はどこなのか 分からない道をも
行かなければ 行かなければ
主が先にたち 行かれるから
「ともに歌おう」の10番 “主に愛されて”の歌詞です。
イエスを見捨てて、裸で逃げ去ったこの若者は、どこへ行ったのでしょうか? その後の消息をマルコは語りませんが、彼は逃げ出したその先で十字架のイエスに出会ったのではないでしょうか。裸のままで十字架につけられ、辱められ、殺されたイエスが彼の前に立たれたとき、彼はなお主に愛されていることを知ったのでしょう。
主に愛されていることからの出発が、その男の名は知られずとも「白い衣を着た若者」(マルコ16-5)として復活の場に登場するのです。 「あの方は復活なさってここにはおられない。先にガリラヤへ行かれる」と告げる復活の証人として。
by wasedachurch
| 2005-03-02 01:02
| 今週の説教